【書籍】“アーティスト”から“パフォーマンス”へ さやわかが「一〇年代音楽」のモード転換を語る

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『一〇年代文化論』という書籍が5月24日に発売されたそうです。10年代のカルチャーの本質とは何かについて綴られていますが、ゴールデンボンバーもチラっと登場します。



長い記事ですが、どうぞ(^-^)⊃
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“アーティスト”から“パフォーマンス”へ さやわかが「一〇年代音楽」のモード転換を語る
リアルサウンド

5月25日(日)16時46分配信

さやわか『一〇年代文化論』(星海社新書)
 ライター・物語評論家のさやわか氏が、自身三冊目の単著となる『一〇年代文化論』を、4月24日に上梓した。『一〇年代文化論』は、「次の10年のコアとなるものは、その直前にある」という見立てのもと、2007年頃のカルチャーの変化に目を向けることによって、現段階で2010年代のカルチャーの本質を捉えようとする意欲的な書物だ。「残念」という言葉の意味の移り変わりから、アイドルやライトノベルのあり方の変化を鋭く評した本書は、10年代の音楽シーンを語る上でも示唆に富む内容となっている。そこで当サイトでは、特に音楽シーンにおける10年代の変化について、表現方法やその内容、評価のあり方といった側面から分析してもらうとともに、同氏の書き手としてのスタンスや方法論まで詳しく聞いた。
■「残念」なものが、世の中で大事だと思われるように変わった
――本書では「残念」という言葉の意味合いが、2007年頃からポジティブなニュアンスを含むものに変わってきたことから、10年代のカルチャーの本質とは何かを考察しています。その言葉の変化に気付いたのはいつ頃でしょうか。
さやわか:そう思うようになったのは本当に最近ですね。ここ2、3年くらいで「残念な美人」とか「残念なイケメン」とか、そういう表現をよく見るようになり、これは意味が変わっているのかな?と関心を持ちました。僕はもともと言葉の意味の変遷に興味があって、とくにネットスラングなどがすごく好きなんですね。価値が揺らぐというか、意味が移り変わってしまうのがネット用語の面白さだと思っていて。もちろん自分の原稿ではちゃんとした言葉使いをするけれど、そういう風に言葉の意味合いが壊れるのを観察するのは好き。言葉ってもともとルーズなものですから。で、最近の「残念」の使われ方で象徴的なものを探していて、2009年に公開されたITmediaのインタビュー記事「日本のWebは『残念』梅田望夫さんに聞く」に行き当たりました。そこで使われている「残念」は従来の意味合いでしたが、今現在、この言葉がポジティブな意味合いに変わっているとすれば、梅田さんが指していた「残念」なもの、つまりはサブカルチャー的なものが、世の中で大事だと思われるように変わったといえるのではないかと。そういうアクロバティックな思考の転換が期待できそうだと思い、この本を書くきっかけになりました。
――実際に言葉の意味合いが変化し始めた時期は?
さやわか:たとえば2007年にテレビ番組『人志松本のすべらない話』の中で、千原ジュニアが兄の千原せいじを「残念な兄」として、そのエピソードを紹介していたことですね。その「残念」には、単に貶めるだけじゃなく、おもしろおかしい意味合いが含まれていて、割とポジティブに使われていました。これが新聞報道などにもそのまま使われていて、言葉の意味合いが少し変わったのを感じさせる。お笑いの世界ではそれ以前にも、2004年に波田陽区の「残念」という言葉が流行語大賞に選出されていますが、その時はぜんぜん違う意味合いです。だけど2007年の千原ジュニアの頃には、次第にポジティブな意味を含むように変わっているわけです。
――本書で指摘する新しい「残念」は、清濁併せ呑むというか、良いところも悪いところもひっくるめて対象を愛する態度が生まれてきた、ということでしょうか。
さやわか:そうですね。そもそもこの本で何を書きたかったかというと、日本文化について、最近は従来的な意味での「良さ」や「悪さ」という価値体系が壊れている、ということなんです。そのキーワードとして象徴的に使えるのが「残念」という言葉だったんですね。たとえば音楽でも、もともと「価値がある」ものと思われていたものがだんだん廃れてきて、逆にそんなによくないと思われていたものが評価されるようなことはよくありますよね。ロックに限っても、価値の転倒というのは何度も起きてきた。90年代の「オルタナティブ」「ローファイ」なんていう言葉はまさに価値の転倒によって生み出される概念です。だけど最近は、それをさらに越えた感じで、必ずしも「良い」「悪い」という嗜好性だけが大切ではなくなっている。2007年頃はマッシュアップの曲がたくさん作られていて、その考え方ってもう「良い曲同士を繋げる」「楽曲的に親和性があるから組み合わせる」といった、従来のミックスの考え方を逸脱してしまっているんですよね。ドラえもんの曲とガバ(ハードコアテクノの1ジャンル)の曲をとりあえず繋いでみた、ということが普通に行われるようになった。それは単に「できるからやる」っていう発想に近くて、良い悪いで括れる話ではないと思うんです。それから、MADのような形で全く無関係な音楽と映像が組み合わされることも非常にポピュラーになった。それまではクラブVJのような即興的なスタイルを除くと、音声と映像が的確に結びつけられたものが「公式PV」として作られているだけなのがポピュラー音楽の状況だった。つまり固有性があったわけですよね。だけど今は、音楽が好き勝手な素材と組み合されるのが当たり前のものとして捉えられるようになりました。
■総合芸術としてのパフォーマンスを提示した、Perfumeの重要性
――本書では、Perfumeが時代の変化を象徴するアーティストとして取り上げられています。
さやわか:Perfumeは重要なアーティストだと思っていて、彼女たちは総合芸術という形での、音楽偏重以降のリスニングスタイルのヒントになるんですね。たとえば今やそんなことを気にする人はあまりいないと思うんですけど、彼女たちが出てきたときは、ライブで実際に歌っていないことを指摘する声が多く、ネットでも揶揄的に評する人がそれなりにいた。しかし、そもそもあれはオートチューンをかけている音楽だからライブで歌わないのは当然だと言えるし、逆にいえば、オートチューンがかかっているのにライブを重視して活動しているところが面白いグループなんです。つまり、音と動きを同期させていくライブパフォーマンスがPerfumeのやり方なんですね。音楽を流して、その歌に合わせて口も含めた全身の繊細な動きを見せることによって、あたかも歌っているかのようなパフォーマンスをする。これは極めて演技的な発想で、僕は実際のところ00年代の流れは、音楽も含めて演技的なものが台頭してきた10年だったんじゃないかとも思っています。そして、同期させるという発想は先ほどのMADの話と通じるものがあるんですね。MADは音と映像を同期させていましたけど、Perfumeの場合はそれを身体でやる。流れている歌とリップシンクすることによって、あたかも臨場感があるように見せる。ライブの現場ではその臨場感が立ち上がることに、人は感動してしまうんだと思います。AKB48は2005年に結成され、今のアイドルシーンでは代表的なグループとなっていますが、その前段階としてはPerfumeのブレイクはあったし、彼女たちが「今のアイドルがするべきことはパフォーマンスであり、演技的に臨場感を生み出すことなんだ」ということを広く知らしめたのはその後のシーンに大きく影響を与えたのではないかと思います。
――Perfumeブレイク以前のJPOP界では、シンガーソングライター的な創作姿勢を良しとする風潮が強かったように思います。つまり、確固とした思想や自我をもったシンガーが、自身の声や演奏でメッセージを伝達していくのが「本当のアーティストの姿である」という。Perfumeのようなパフォーマンス性の高いユニットが台頭してきたことによって、そうしたクリエイター像に変化が生まれたと?
さやわか:僕は「従来とは違うモードに変化した」という風に捉えています。宮台真司さんの『サブカルチャー神話解体』という書籍では「自作自演」という言葉がキーワードになっていて、シンガーソングライターがスピリットを作品に込めて、それが匂い立つものが「創作」であるという考え方が、フォーク以降の日本の音楽シーンの中では支配的だったと指摘しています。かつては、日本の音楽シーンにもいわゆる芸能界的な、作詞家がいて歌い手がいるという分業のスタイルもあったはずなんだけど、とりわけ80年代後半から、その人の主張をその人の声と楽器で演奏するのが、作曲家としての矜持になるという心理主義的な「アーティスト」性が重視されるようになった。僕はその到達点にいるのが宇多田ヒカルや椎名林檎といったミュージシャンだと思うんですよ。彼女たちがブレイクするのは98年で、ここが90年代の「アーティスト」路線のピークなんですよね。個人的には、宇多田ヒカルは若い時にデビューしているので、本当は新世代的な感覚を持っていたと思うんですよ。彼女はゲームやマンガも大好きで、もっと広い考え方で音楽に向き合える人だったのではないか。でも結果的にそうした時代が彼女に求めたのは「アーティスト」的なものなので、キャリアとしては安定していくというか、あまりリリースしない大家のようになってしまった。これは音楽メディアの問題としてもしばしば指摘されることなんですけど、音楽家はリリースするたびに毎回、人生のなんたるかを込めるわけではなく、本当は何も込めないで自由に創作したっていいはずなんですよ。しかし、それを良しとしない空気がメディアの後押しもあって作り上げられてしまった。それでヒット作を飛ばす人ほど高尚な「アーティスト」化して作品をリリースしなくなり、シーンとしても動きがゆったりしていってしまった。そういう風潮に対するオルタナティブとして、パフォーマンスが台頭してきたんじゃないかと思います。つまり、歌を歌うっていうのには「心を込める」ということとはまた別のレイヤーがあって、技術というものがちゃんとあるんだと。
――パフォーマンスの鑑賞を通して、技術的な面への注目が進んだということですね。パフォーマンス自体の台頭は2000年代以前からあったようにも思いますが――。
さわやか:たしかにそうなんですが、たとえば90年代末からは『ASAYAN』なんかであからさまにリスナーも教育されていった面があるんじゃないかと思います。たとえばモーニング娘。なら「恋はダイナマイト」と歌わないで、「ザイナマイト」と歌う方がかっこよく聴こえるとか、ギターを持つときに下の方で持った方がかっこよく見えるとか、そういうことがテクニックとしてあって、それをうまくやるために精神的な克己があるんだということにみんなが気付いていった。昔はテクニックよりも単純に「私は魂を込めて歌っている」という方が良いとされていたんだけど、90年代後半あたりから一般のレベルで改めてパフォーマンス性が見直されたんだと思います。本書の中で「次の10年のコアとなるものは、その直前にある」ということを指摘していますが、98年に宇多田ヒカルら「アーティスト」が90年代的な路線を極めてから00年代的な「パフォーマンス」の時代が台頭するというのは、わかりやすいのではないでしょうか。
■パフォーマンス系ミュージシャンは、「彼ら自身の物語」を持っている
――では2007年辺り、Perfumeのブレイク以降は、そういったパフォーマンス化がさらに進んだと?
さやわか:2007年以降は、パフォーマンスを中心にして作品作りがさらにシステマティックになったんだと思います。今回の本でも指摘しているのは、Perfumeは誰がコントロールしているのかわからないものだ、ということなんですね。これは最近のアイドルもそうだし、ボカロPとかもそうなんですが、アマチュアのレベルでも非常に分業化が進んでいて、曲を作る人、歌詞を書く人、ジャケットを作る人、ミックスだけをやる人、という感じで、みんなで一つの作品を作り上げるスタイルが増えている。Perfumeもそうで、MVを撮る人はMVしかとらないし、音楽を作る人は音楽しか作らない。僕の本ではそれらのハブというか、最終的な依り代となって作品を下ろすのが、あの三人の女の子のパフォーマンスという考え方をしています。以前だと、ある程度は誰かがコントロールしているという発想だったと思うんですけど、そうじゃなくなった。なぜそうなったかというと、先ほどの同期の話とも繋げて言えば、音と映像というものがむしろ分離可能になったからなんですよね。要は、デジタルフォーマット的な考え方が多くの人に理解されて、たとえばDVDなら、音楽や映像や字幕がひとつのコンテナの中でくっついて、1ファイルとして再生されているということがすんなりわかるようになった。だから字幕や音声部分だけをすげ替えて別言語に対応させることだってできる。複数の要素が同期再生されることでひとつの作品になるんだっていう感覚が一般にも浸透してて、それに合わせた創作スタイルによって生まれているのが、Perfumeとかボカロ以降のエンターテイメントなんだと思います。
――本書ではシステムの変化だけではなく、さまざまなエンタメ作品の変遷を追うという形で、特にライトノベルにおける内容の変化について書かれています。では音楽に関して言うと、どういった内容的な変化が見られるとお考えですか。
さやわか:僕がいま「パフォーマンス系」として触れたミュージシャンには、ジャニーズやAKB48といったアイドルはもちろん含まれるけど、彼らが一様に持っているものがなにかというと、結局のところ「彼ら自身の物語」だと思うんですね。たとえば今のモーニング娘。’14もそうで、彼女たちに勢いがあるのは曲の内容がどうこうというだけでなく、何作連続一位を目指すとか、作品の外部に強い物語を持っているせいもあると思います。つまり90年代的な「アーティスト」ではないから、歌詞の中に心情が直接的に歌われているか否かということじゃなくなっている。ももクロやAKB48の場合は自分たちの物語――つまり「成り上がって行こう!」みたいな感じを隠喩的に歌詞に盛り込むことで、ファンの側がそれを彼女たちの物語を彩る劇伴のように解釈する、ということが行われている。こういうのはアイドルだけじゃなくて、たとえばEXILEとかゴールデンボンバーとか、今どきの人気ミュージシャンはたいがい含まれますよね。それで、つまり、人気ミュージシャンは往々にしてパフォーマー化しており、場合によってはそのパフォーマーとしての生き様を想起させるような楽曲が作られるようになってきているということは言えるんじゃないかと思います。それは、シンガーソングライターが心情を込めた歌を作り魂を込めて歌うというのとは、近いようで遠いですよね。もちろん、そうじゃない音楽もたくさんあると思いますが、チャートの上位を見るとそういう傾向はある。
――なるほど。パフォーマンスとして「自己の物語」を演じるのと、「魂を込めて歌う」というのは似て非なるものだということですね。ただ、そのどちらも「本当の自分」のようなものを前提にしている気がするのですが、そのあたりはいかがでしょうか。
さやわか:この本を読んで「みんながパフォーマンス的にキャラを演じるようになって本当の自分がいなくなったから、僕らは楽に生きられる」とか、もしくは「本当の自分が持てない時代だから辛いね」みたいな解釈をする方もいらっしゃるのですが、どちらも半分だけ正しいと僕は思います。つまり役者がどのように役柄を演じるのかということが問題となっているだけで、役者の実存がなくなることが可能になったわけではない。これは本書でも触れていますが、そういう意味では「本当の自分」というポジションは、そんなものがあるかどうかはともかくとして、まだ意識されていると思います。「キャラを演じるために頑張る自分」みたいな感じで。結局、若者の悩みや辛さのあり方は昔と大して変わっていないんだと思いますよ。ただそれがひたすら固有の自分というものを追い求める中で生まれるのか、キャラを演じるための努力の中で生まれるかの違いだと思います。シンガーソングライター的な固有の内面を求める物語が好きな人は、パフォーマンス系の人を見下したりもするけれど、どちらも根底では似たような感性にドライブされる物語ですよね。
■情報過多の中で音楽を流通させるには、キャラクターとか強いエモーションが有効
――物語を駆動させる装置として、主体性のようなものも生き延びているということですね。2000年代前半には社会学者の北田暁大さんが「歌詞フォビア」という言葉を使って議論していましたが、当時は一部の音楽ファンが「歌詞は音楽の本質ではない」「物語から離れて音そのものを聴くべきだ」という風に語っていて、実際にそういった志向性を持つ優れた作品も生まれていました。「音響派」と呼ばれる音楽ジャンルも発展しましたけど、さやわかさんは今その流れをどう整理していますか。
さやわか:前著である『AKB商法とは何だったのか』もそうですが、『一〇年代文化論』を書くにあたっても、音響的なアプローチについて考えざるを得ない場面がありました。音響系は、一言で言うと音そのものに収斂させていくことが音楽にとって重要なことだという考え方で、それをさらに掘り下げて解釈すると、音というのは「私の鼓膜(もしくは身体)に響いている何か」であって、つまり音楽というものは極めて個人的な体験である、ということだと思います。それは煎じ詰めれば料理のようなもので、たとえばカレーを食べて「辛い」っていっても、その「辛さ」というのは本当は誰にも共有できていない、というところにまで至ってしまう。つまり、かつてのDJブームあたりから始まるリスナーズミュージック――ミュージシャンではなくて、私たち音楽を聴いている側にイニシアチブがある、という考え方の極北に、音響というものはあったのだと僕は思います。ところが、そういう風になると音と人は、一対一の関係にならざるを得ないので、解釈の娯楽としては楽しめるかもしれないけれど、シーンとしては動かなくなりますよね。というかブームやシーンという考え自体が成り立ちにくくなる。だからリスナーズミュージックの流れのひとつの完成形を生んだ先には、個々のリスナーのレベルにまで細分化され拡散したシーンしかなくなってしまう。
――確かに、音響的な動きの中にはシーンという概念自体を良しとしない面はあったかもしれません。
さやわか:ただ僕がやりたいのは、今さらそうした音楽のあり方を否定することじゃなくて、その後で何が起きたかを知ることです。先日ちょうど渋谷慶一郎さんに取材したときにお訊きしたのは「情報がすごく増えたし、情報が錯綜するようになったから、情報に記号性とか具象性を含ませないと認識してもらいにくくなった」ということなんですよね。だから渋谷さんは初音ミクを使ったと仰った。その通りなんだと思います。情報過多の中で音楽を流通させるにはキャラクターとか強いエモーションが有効だし、それこそマッシュアップじゃないですが、素材としても手に取れる場所にあるから、ならば使おうということになる。単純に音響が退潮したというよりも、そういう風潮になっているのではないでしょうか。言い換えれば各人にとってのものとして拡散した音楽を、初音ミクなどのキャラクターを中心に置くことによって再統合する。この本でも音楽が共有されるものに変わってきている、といった指摘をしています。音楽が中心的なハブになって人々を繋げているんだと。そういう状況に対して、「音楽そのもの」が重視されていないじゃないかと批判する人もいるかもしれないけれど、僕はそれは考え方が違うのだと思います。音楽がリスナーに行き渡らないと、「音楽そのもの」について考えることも難しくなっていく。だから今が音楽にとって敗北かというと、そうではない。むしろ音楽はあらゆるメディアのハブになって、遍在するような状況になっている。先ほどのPerfumeの話もそうでしたが、要は、なにが頂点かというヒエラルキー的な考え方自体が否定されている状況なんだと思います。そこで音楽こそ至上なのかどうかと、いちいち再確認する必要がなくなっている。
――音響はある意味ではテクスト論的なアプローチというか、音を構造分析的に聴くという方法論でもあったと思います。この本もテクスト論的な面があり、分析の対象は文献から事象に広がっていますが、さやわかさん自身の体験などは可能な限り排して分析するというスタイルで書かれています。
さやわか:そうですね。僕は媒体によって書き方を変えるので、カルチャー誌のルポルタージュやレビューなら、自分の体験や主観に基づいたものも書きます。でもその書き方だと、その体験に共感できるか否かという読み方をされがちなんですよ。要するに「お前はこれを好きだからホメているが、それは真実ではない」とか「お前は現場を見て書いているから正しい」とか、そういう価値観で判断される。僕はそれに疑問があるので、自分の本では、なるべく自分の体験や主観を切り離して、誰から見ても説得性の高い本にしようとしている。正直、どっちの書き方にも良さがあるので、僕はそこで正誤がわかれるとは思ってないですね。それに仰るとおりテクスト論にも音響の話と似たようなワナがあって、なんでも構造のレベルに置き換えてしまいがちなんですよね。書き方というのはバランスが大事で、体験だけに依るのでもなく、テクスト論に終始するのでもなくて、ちゃんと補完できるような要素を用意しておくのが大事だと思うんです。だから僕は構造分析のように見せかけつつ、本全体としてはひとつの物語性を持たせるというか、エモーションに駆動されるようなやり方を著作では必ずやっています。同じライターだと僕は磯部涼さんの書き方とかが好きで、彼はライブ評などでも分析的な視点を挟みつつ、同時に「すれ違った女の子の汗がベタっとしていて気持ち悪かった」みたいなことも書くんですね。分析的な視点と個人的な体験を渾然一体にして書いていて、そういうスタイルを好ましく思っています。
■「残念」という価値観が別の価値観を駆逐する訳じゃない
――さやわかさんが文章を書く際のベースとなっているのは、現代思想や社会学などの学識でしょうか。
さやわか:そうですね。しかしベースにしつつ、僕はそういう書き手がパフォーマティブには何をやってきたのかを参考にしているつもりです。たとえば現代思想というと浅田彰さんとか柄谷行人さんとか、蓮實重彦さんとか、あるいは『批評空間』みたいな思想誌とか、そういう名前が出てくると思うんですけど、東浩紀さんとかはそのシーンに宮台真司さんや大塚英志さんを引き入れることで、現代思想のパースペクティブのあり方を変えた。僕はオタクとかサブカルとか、そういうジャンルの評論を書き継いでいきたいというよりは、その「位置付けを変える」というやり方、そういうアティテュードを面白いと思うし、影響を受けていると思います。それまであった言説をうまく利用しながら、でも見取り図をまったく変えてしまうということ――たとえば地図を逆さに置くとか、そんなことがやりたいんですよね。
――最後に、さやわかさんは「残念」を象徴するカルチャーというのは、2017年頃には終わるかもしれないと書いていますが、その後はどんな動きが台頭するとお考えですか。
さやわか:まず宇野常寛さんが2008年に『ゼロ年代の想像力』という本で「決断主義」という考え方を示されていました。宇野さんは1995年『エヴァンゲリオン』の分析を通して、「何も選ぼうとしないという碇シンジ的な思想では00年代を生きられない」っていうことを言っているんだけど、実はその碇シンジの態度も含めて、00年代というのは何かを選ぶことが重視された10年だったという話になっている。そんな流れと比較して言うなら、善し悪しを判断してどちらかに決断する時代から、残念の時代、つまり善し悪しを決めてどちらかを捨てるのではなく、ダメなことを単にダメだとして受け入れる時代に変わったのだと、この本では指摘しました。なにかを決断することのしんどさ、辛さみたいなものが明らかになったから、ダメなものも積極的に受け入れる時代になったんだと思います。しかしその次にくるものは何かと言われると、おそらく繰り返しになるんじゃないかな、と最近は思っています。受け入れてばっかりじゃダメだ、何かを決断せよとか。つまり僕は「残念」という価値観が別の価値観を駆逐すると考えている訳じゃないんですよ。この本は全く、一〇年代の文化が過去を葬り去るからすげえだろうとか、そういうものじゃない。というか、この本でも書いているんですけど、いつも前の世代の人たちは、新しく出てきたものを「こんなのは全然話にならない」っていうじゃないですか。音楽とかでも、自分自身も恐らくそうなんですけど、新しいものが出てきたときに「こんなもの価値ないよ」「クズだわ」「これは音楽じゃない」なんて言いがちで(笑)。でも、それって自分も上の世代から言われ続けてきたことじゃないですか。そして下の世代は下の世代で、上の世代はダメだとばかり言っている。結局みんな自分の生を絶対的なものにしたいから「上の世代はダメ、下の世代もダメ、俺自身が正しい」って言いたいんですけど、そういう考え方自体がサイクル、ただの繰り返しだと思うんです。僕はそういうのが好きじゃないというか、飽きてるんですよね。カルチャーというのは結局、「残念」という言葉の意味のように絶えず変わっていくものだという気持ちでこの本を書いた。それを読んで、このループを抜ける人がもうちょっと増えたらいいなと思っているんですよ。そうなれば、今は僕が『一〇年代文化論』とか言って、ボカロとかラノベとかアイドルの構造分析を書いたりしているけれど、別に僕が書かなくてもよくなるんだろうと思います。そうなったら僕は他のものを書くので、それでいいんですけど、でも今はまだそうじゃないので、書き続けている感じですね。
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取材=神谷弘一/構成=松田広宣
zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140525-00010002-realsound-ent

こういう業界の歴史の本って面白いですよね(^-^)
作者のさやわかさんは1982年生まれらしい。同世代!
ji-sedai.jp/editor/staff/HirabayashiMoegi.html